日本の民族衣装である着物は、いつの頃からどのようにして今の形にいたるのか?

母国の民族衣装なのに日本人すら知らない歴史。
 
 
ですが、着物の歴史や奥深さを知ると、着物が民族衣装である日本(日本文化)をとても誇らしく思い、着物がますます好きになります。

 
 
洋服が主流になった現代は洋服ばかりが注目されがちですが、世界一と言っても過言ではない染織技法を持つファッションの着物の歴史を見ていきましょう。
 
 

着物の歴史

現代の着物の原形の形は『小袖』という小さな袖口を持つ衣服が変化してできたもので、平安時代中期に「大袖」と区別するために生まれた言葉です。

平安時代以前は庶民の衣服でもあった小袖は、支配階級で高位の人々の下着として使われていたものが、やがて表着として着るようになりました。
 
 
時代と共に変化をしながら、四季や自然を取り入れた日本人独特の感性で成り立つ小袖の歴史をひもとくと、現代の着物が見えてきます。
 
 

まずは小袖の歴史を簡単に年表でまとめてみました。

小袖がどのように始まり時代の流れと共にどのような立ち位置になったのかを見ていきましょう。
 

着物の歴史(簡単な年表)
時代 着物(小袖)の歴史
弥生時代
 
(紀元前1000年ごろ~350年ごろ)
 男性は一枚の布を体に巻き付けた巻布衣(かんぷい)というもの。
女性は上からかぶり、腰で帯状の紐を結んで着るワンピースタイプの貫頭衣(かんとうい)という袖なしの衣服を着ていました。
古墳時代 
 
(350年ごろ~592年)
ツーピース型の衣服を着るようになり、男性はズボンのようなもの、女性はロングスカートのようなものを下半身にはき上半身には丈の短い衣を着ていました。
飛鳥・奈良時代
 
(592年~794年)
身分の違いにより明確な衣服の二分化が生まれ、労働階級の庶民は小袖を衣服として、支配階級は手足の隠れる動きにくい衣服を着るようになりました。
養老3年(719)2月3日に元正天皇が「衣服令(えぶくりょう)」を発令して、衿は右を先に合わせる「右衽(うじん)着装法」が定められ、現代の右前で着る衿合わせの決まりに続きます。
平安時代
 
(794年~1185年)
支配階級の象徴の大袖を何枚も重ね着する十二単。
庶民は貫頭衣を元に変化した筒袖を持った動きやすい小袖を着ていました。
鎌倉・室町時代
 
(1185年~1603年)
武家の衣服は公的な場では公家同様『大袖』、私的な場では『小袖』を着るようになりました。
庶民も仕事以外は袂付きの小袖を着たと言われています。
公家を除くほとんどの人が日常的に袂が付いた小袖を着るようになりました。
この時代までの衣服には、大袖、筒袖を持った小袖、袂のついた小袖の三種類あります。
2つの小袖に別々の名前をつけたいが、大袖があるいじょうその対である小袖の名をなくすことはできなかったため、袂のついた小袖を「着るもの=着物」と呼ぶようになりました。
次第に、袂のついた小袖が一般的になると「小袖=着物」の認識になっていきました。
江戸時代
 
(1603年~1868年)
大名の制服とも言える裃(かみしも)が誕生し、奥の世界(女性)では、身分や階層の違いによってそれぞれの美意識や好みを小袖(着物)に反映して楽しんでいました。
町人文化が花咲いた江戸時代は素材(庶民は麻、町人は絹)で小袖(着物)を区別をしていました。
女性の着物は江戸時代中期ごろから、それまで対丈(着た時に身長と一緒の丈で着物が引きずらない)で作られた着物の丈が長くなって行き、帯の下でしごき帯と言うもう一つの帯を使って着物をたくし上げて着るようになりました。
明治時代
 
(1868年~1912年)
開国による洋服文化が導入されたために、洋服と区別する着物を和服と呼ぶようになる。
明治11年(1878年)には「束帯などの和装は祭服とし、洋装を正装とする」という法律が作られ、大袖は洋服に代わり姿を消すと共に大袖という言葉は次第に使われなくなりました。
旧町人階級を中心とするほとんどの一般庶民女性は、明治時代になっても小袖を受け継ぐ着物を着ていました。
大正時代
 
(1912年~1926年)
西洋文化が一般庶民にも浸透し、海外の様々な文物が着物の模様に使われ、ヨーロッパのアールデコ・アールヌーボーもこの時代の着物に影響を与えました。
女性の活動が活発になり帯の下で初めからおはしよりを作ってから帯を絞める(現代の着方)ようになりました。
昭和時代
 
(1926年~1989年)
昭和前半の着物は大正時代の様式を受け継いでいきますが、褄模様という特徴以外は、江戸時代の小袖に直接つながる特徴はほとんど見られなくなりました。

以上が大まかな小袖の歴史ですが、次はその時代の衣服のイラストや写真と共にもう少し詳しく見ていきましょう。

弥生時代の日本の衣服

弥生時代の衣服 紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代。

239年『魏志倭人伝』等の中国の史書に記されている倭国の王(女王)卑弥呼が魏に使いを送っていた頃です。

男性は一枚の布を体に巻き付けた巻布衣(かんぷい)というもの。

女性は上からかぶり、腰で帯状の紐を結んで着るワンピースタイプの貫頭衣(かんとうい)という袖なしの衣服を着ていました。
 
 
気候の上では温帯に属する日本では毛皮から脱した後はまずはこうした衣服からの始まりだったと言われています。

やがて体温調節や身体保護の効果を高めるために、両脇を縫い筒状の袖を付けるようになりました。
 
 
この時代は既に、カラムシ(苧麻)やアサ(大麻)などの植物繊維から糸を紡ぐ技術や、できた糸から布地を作る技術から衣服が作られていたと言われています。
 
 
卑弥呼など身分の高い人物は居坐織(いざりばた)などの原始的な機織(はたお)からできた絹を使った衣服を着ていたようです。

また、紫草(むらさきぐさ)や藍(あい)などから取った植物染料を使い衣服が作られていました。

 
 

古墳時代の日本の衣服

古墳時代の日本の衣服 350年ごろから700年ごろまでをさし、天皇をはじめ、勢いのある豪族たちがたくさんの古墳をつくった時代です。

593年には聖徳太子が摂政となり、この時代には養蚕(ようさん)も盛んになったようです。

弥生時代の後半から5、600年ごろは埴輪(はにわ)から見られるツーピース型の衣服を着るようになり、男性はズボンのようなもの、女性はロングスカートのようなものを下半身にはき上半身には丈の短い衣服を着ていました。
 
 
古墳時代の後半にもなると、大和朝廷により大陸との交流も盛んになり中国や韓国の影響を受けるようになります。

この時代は、「左衽着装方」(さじんちゃくそうほう)と言って男女共に左前に衿を合わせていました。

 
 

飛鳥・奈良時代の日本の衣服

飛鳥・奈良時代の日本の衣服 700年ごろに入ると中国の唐文化の影響を受けるとともに仏教も伝来した時代です。
 
 
中国文化の影響を受けるのは身分の高い支配階級の人だけで、当時中国を支配していた漢民族が着ていたことから『漢服』と呼ばれる大きな袖口を持つ全体的にゆったり仕立てられた衣服を着ていました。

女性の衣服はひざ下までと長く、男性は頭に冠をかぶり、長い袍(ほう)を着て、袴をはいき、男女ともに左前の衿合わせの盤領(あげくび)とい詰め衿式の衣服を着用していました。
 
 
飛鳥時代に入り聖徳太子が儒教や仏教の思想を取り入れ、冠位十二階が制定され、官吏の位階を十二階に分け、位により冠と衣服の色が決められました。

奈良時代には礼服(らいふく)、朝服(ちょうふく)、制服(せいふく)を位により服装を三分類する、三公服が制定された時代。
 
 
そして養老3年(719)2月3日に元正天皇が「衣服令(えぶくりょう)」を発令して、衿は右を先に合わせる「右衽(うじん)着装法」が定められ、現代の着物の衿合わせである右前の誕生です。
 
 
一方庶民は、胡人(中央アジアの遊牧民)が着ていた『胡服』という、筒状の動きやすい袖を持つ全体的に体にフィットした衣服を着ていました。

 
 
衣服の袖と裾(すそ)の大きさや形状は身分の象徴で、身分の差がない時代は皆が活動しやすい形状の衣服を着ていました。

やがて労働する身分と、しない身分が生まれ、労働する立場の庶民は動きやすい体にフィットした形状の衣服を着ていました。

労働しない支配階級は大きな袖と裾を持つ形状の衣服を着るようになり、こうして身分により衣服の違いの概念が確立されていったのですね。

平安時代の日本の衣服

平安時代の日本の衣服 794年~1185年、貴族中心の華やかな時代で900年末期に遣唐使が廃止されると大陸との交流が途絶え、日本独自の文化を作り上げる時代に入ってきました。
 
 
最初は奈良時代の衣服ですが、やがて身幅・袖幅がゆったりした衣服が好まれるようになり十二単や束帯へと移行していきました。
 
十二単に代表される重ね着という着装方法は、下着である小袖の上に支配階級の象徴の大袖を何枚も重ね着する着方ですが、元は四季の変化が激しい日本の気候に対応して生まれたものでした。

四季折々の色を取り入れ、季節を衣服で表現する感性は現代にも残され、まさしく日本人ならではの文化はこの時代にはじまったのですね。
 
 
そして庶民は貫頭衣から発達した筒袖を持った動きやすい小袖を着ていました。

 
 

鎌倉・室町時代の日本の衣服

鎌倉・室町時代の日本の衣服 1185年~1603年ごろ武家の勢力が増した時代。

平安時代末期に『武家』と呼ばれる人々が庶民の中から現れます。

もとは農耕などに携わっていた人の中から武力をもって支配階級である『公家』に奉仕するようになった人たちで、中には公家に準ずる身分までのし上がる武家もいました。

そうした武家の衣服は公的な場では公家同様『大袖』、私的な場では『小袖』を着るようになりましたが、庶民の麻でできた小袖とは違い、武家の小袖は絹から作られた袂付きの小袖でした。
 
 
室町時代の末期にもなると、庶民の中から新たに町人と呼ばれる人がでて、絹の小袖を着用するようになりました。

肉体労働以外の仕事で生活する町人は袂を持つ小袖であったと言われ、この頃になると、肉体労働の庶民も仕事以外は袂付きの小袖を着たと言われています。

こうして公家を除くほとんどの人が日常的に袂が付いた小袖を着るようになりました。
 
 

小袖は構成は形意外に生地の素材、模様、加装技法の三つの要素がありますが、この組み合わせが時代ごとに代わってきます。

時代ごとの身分や階層による好みや感覚や流行りは流動的で、時代を背景に女性達の心理が大きく影響されるからです。
 

江戸時代の日本の衣服

江戸時代の日本の衣服 1603~1868年ごろの時代で封健制度が確立された江戸時代。

男性は「表」(公的な)の世界にいるもの、女性は「奥」(私的な)の世界にいるものとされ、衣服にもそれに従っていました。

身分を象徴する意味を持つ衣服は表の世界(男性)では身分制度の維持のため、自由に選択できませんでした。
 
 
徳川政権のもと、大名が領地を与えられ自治を任せられる藩制度が敷かれると、藩の制服とも言える裃(かみしも)が誕生し、身分制度の象徴ともいえる衣服ですね。
 
 
一方、奥の世界(女性)では、社会秩序を乱さない限り比較的自由が許されていたため、身分や階層の違いによってそれぞれの美意識や好みの小袖を楽しんでいました。

特に、生地や技法の選択、模様の形式などは時代の移り変わりにより変化していきました。
 
 
そして、町人文化が花咲いた江戸時代は現代の着物や帯に通ずるアイテムが沢山登場しました。

帯は幅が広くなり、一人では結べなくなったため着付け師が登場し、この時代の帯は前後左右どこで結んでもよかったのですが、しだいにミスは後ろ、ミセスは前で結ぶようになりました。

たつみ芸者の登場によって、お太鼓を結び、帯揚げ、帯締めができあがったのもこの時代です。

着物 それまでは対丈(着た時に身丈と同じ長さ)で着ていた着物の丈が長くなり、おはしよりを作り着るようになりました。
技法 もっとも大きく変化をしたのは意匠や染織技術で、友禅染や鹿の子絞りといった華やかな技法をはじめとした多くの染織技法がこの時代に誕生しています。

 

明治時代の日本の衣服

明治時代の日本の衣服 1868年~1912年、政府の産業への取り組みで、効率の良い絹工場ができたおかげで、絹の生産が一気に増えてた時代です。

開国により貿易も発展して、絹糸(生糸)と絹製品の輸出が日本の産業となり、世界的に日本は絹の生産地と認知されるようになりました。
 
 
絹糸の大量生産に伴って、絹は他の商品と比べてそれほど高価ではなくなり、女性の和服に縮緬・綸子・御召・銘仙など様々な種類の生地が用いられるようになったのですね。

出来上がった生地は染色技術の発達により二次加工され、今までにない友禅文様が可能になり、絹の小紋染めの流行は、江戸時代から引き続き、人気を集めましたが、先染めの糸で文様を織り出した縞や絣も好まれていました。
 
 

明治維新によって様々なものが大きく変わりましたが、人々の衣服が一気になわった訳ではありませんでした。

公の立場である男性の衣服に洋装が導入されて、かなりの時間差で女性にも導入されたのです。

まずは皇室や政府の正装が洋服とされ、同時に軍人や駅員・郵便局員など、公的機関に勤める人の制服も同じように洋服に決まりました。

町のあちこちで見かけるこれらの職業の人々が洋服を身につけている姿は、やがて一般庶民の憧れとなっていきます。

明治11年(1878年)には

「束帯などの和装は祭服とし、洋装を正装とする」

という法律が作られました。

※束帯は平安時代に生まれた皇族及び公家の正装で、現在でも天皇陛下が祭祀の際に着用されています。
また、天皇や皇太子しか身に着けられない「禁色(きんじき)」というものも残っています。
 
 
女性の場合もやはり、高貴な人々の正装が洋服になり、明治14年(1881年)に「高官が公的な場に夫人を伴う際は洋装とする」という決まりができました。

有名な鹿鳴館外交はその後の話です。

※鹿鳴館(ろくめいかん)外交とは、国賓や外国の外交官を接待するために作られた洋風の建物(鹿鳴館)で、西洋のダンスをして文明国として認めてもらおうという外交方針。

それまで高貴な女性は家から外出しないものでしたが、西洋のパーティーでは夫人同伴が当たり前だったので、そのスタイルを取り入れたのですね。
 
 
一方、旧町人階級を中心とするほとんどの一般庶民女性は、明治時代になっても小袖を受け継ぐ着物を着ていました。

江戸時代末から化学染料が導入され、明治時代には一般的になり江戸時代以来の伝統的な柄を化学染料で染めた着物が当時の主流でした。
 
 
明治時代と言えば「ハイカラさんが通る」でお馴染みの女学生の袴姿は、明治30年ごろからのこと。

海老茶色(紫がかった赤茶色)の股に仕切りのない袴(行灯袴)に革靴、庇(ひさし)髪に大きなリボンをつけた女学生スタイルは、当時の新しい時代を生きる女性の象徴となりました。

大正時代の日本の衣服

大正 1912年 – 1926年たった15年しか続かなかった大正時代ですが、衣服は『大正デモクラシー』と共に大きく変化をとげて行きます。

明治末から続く女性の社会進出の動きの中で繰り広げられる洋装への改革運動。

1923年に起きた関東大震災では、身体の動作を妨げる作りである和服を着用していた女性の被害が多かったことから、衣服の洋装化はさらに進んでいきました。
 
 
そうした中で、着物も大正ロマンを感じさせるような様式が見られるようになりました。

明治維新から始まった西洋文化が一般庶民にも浸透し、海外の様々な文物が着物の模様に使われ、ヨーロッパのアールデコ・アールヌーボーもこの時代の着物に影響を与えました。

その他にも新たに誕生した数々の様式の一例に次のようなものがあります。

名古屋帯 大正7.8年ごろ服装改正運動の一環で生まれた帯で、名古屋女子大学の創始者が考案したので名古屋帯の名前になった。
黒留袖 元々あった華やかな留袖が明治以降に礼服として使用されるようになり、西洋のブラックフォーマルの影響を受けて留袖も黒になりました。
訪問着 明治時代には小紋に一つ紋を入れたものを訪問着として着ていたが大正時代以降に現在の形式になった。
羽織もの ぼかし染めの派手な羽織や道行コートが出現しました。

昭和時代の日本の衣服

昭和時代の日本の衣服 1926年~1989年の昭和時代は、第二次世界大戦の始まりとともに、国防色の上下服、筒袖の着物にモンペ姿となりました。

終戦を迎え、洋装は進歩し日常生活から切っても切れないものとなりました。 
    
一方、着物は色彩が淡くなり、一般的な普段着ではなくなってきましたが、逆に着物独自の魅力がきわだってくるようになりました。     
 
 
昭和前半の着物は大正時代の様式を受け継いでいきますが、この頃には、褄模様という特徴以外は、江戸時代の小袖に直接つながる特徴はほとんど見られなくなりました。
 
 
大正時代に見られた写生的な模様はさらに写実化を進め、一方それとは逆にアール・デコの影響を反映したモダニズムを強く感じさせる、デザイン化された模様も現れました。
 
 
また夏の単衣には、絽や紗のほか、さまざまな工夫を加えた特殊な生地を用いた涼しげな生地ができ、友禅染や刺繍を用いて夏向きの模様を表したものが見られるようになりました。
 
 
さらにこの時代には、江戸時代前期から中期にかけての小袖意匠を写した着物が現れます。

戦争を挟んで現在に至るまで、着物の基本的な形式の一つとして受け継がれていくものになります。

 
 
以上を見てきたように、着物のもととなる小袖は、近代のきものに至るまでに多様で複雑な展開を見せてきました。

それぞれの階層が異なる様式を好み用いたのは決して偶然ではなく、女性たちの身分や経済力を反映した価値観や美意識に裏づけられてのことであったといわれています。

ですが、そもそも小袖である『着物』という言葉がどのようにしてできあがったのか気になりますね。

次は小袖と着物という言葉の歴史を紹介します。

「小袖」という言葉、「着物」という言葉

桃山時代のポルトガル人宣教師が書き残した記録に、小袖の事を「着るもの」または「きもの」と呼んでいる例がしばしば見られました。

当時の日本人が小袖をそのように呼んだのは、「きもの」すなわち衣服のほとんどが「小袖」であったからといわれています。
 
 
江戸時代には、公家も日常生活では小袖を着ることが多くなり、「小袖」=「着物」といわれるようになりました。

ただ、わずかではあっても、儀式には「大袖(広袖ともいう)」を着用していたため、それに対する言葉として「小袖」という言い方もなくなりませんでした。

それが明治時代になり、「大袖・広袖」を着る人がいなくなったため、桃山時代から使われていた「着物」という言葉が唯一伝統的和服を表す言葉となりました。
 
 

以上が着物という言葉に統一されるまでの歴史でしたが、着物=着るものという概念は昔から変わらず続いている事がわかりましたね。
 
 
こうして着物の歴史をひも解くと、現代にいたるまでの人々の思想や時代ごとの着物の形状などがわかり、今まで以上に着物が面白く感じたのではないでしょうか。

ですが、今回紹介しきれなかった着物の歴史はまだまだあります。

もう少し深く知りたい人の為に歴史を学べるおすすめな本を紹介します。

着物の歴史が学べるおすすめ本

着物を楽しみたいのに、まぎらわしい決まり事やルールに毎回悩まされたりしますよね。

そんな時は歴史を学ぶことで、その決まり事やルールがどのようにして作られたのかが見えてきます。

目先の解決策だけでなく、着物の成り経ちから現代の着物の決まり事やルールのあり方が分かり、もっと自由に着物を楽しむことができるようになります。

そこで今回は今よりもっと着物を楽しむためにも、着物の歴史が学べるおすすめの本を4冊紹介します。

①きもの文化検定公式教本Ⅰ『きものの基本』/一般社団法人 全日本きもの振興会 編/ 講談社 出版

 
着物に関する知識や歴史の普及活動をしている (社)全日本きもの振興会が推薦する一冊。

現代の着物文化の指針とも言える (社)全日本きもの振興会の推薦だからこそ安心できて、おすすめです。

着物の歴史だけでなく「これだけは知っておきたい」着物の基本が初心者でもわかりやすく写真付きで学べます。

本体2,000円+税

②きもの文化検定公式教本Ⅱ 『きものの たのしみ』/一般社団法人 全日本きもの振興会 編/ 講談社 出版


 
きもの文化検定公式教本Ⅰ『きものの基本』に続き、きもの文化検定の公式教本です。

2018年度の最上級である一級の受講者231人中、合格者はわずかに14人の合格率6.9%という恐ろしく難関のきもの文化検定が教本としている本。

難関検定が教科書としておすすめしている本ですが、難しい内容ではなく、いたってわかりやすく見やすい写真付きで解説してあるので初心者でも読みやすい本です。

本体2,000円+税

③図説 着物の歴史 /橋本 澄子 著書/ 河出書房新 出版


 
「図説 着物の歴史」は着物のもとである「小袖」の形や模様の移り変わりをカラー写真メインで紹介した本です。

着物の歴史を詳しく学ぶことはできませんが、現在まで伝わる「着物」の歴史を物館に収めてある綺麗な模様の着物を堪能するには良い本。

古墳時代から現代までの装いの歴史を、簡単に紹介した章もあり、ざっくり知りたい人におすすめな本です。

本体 6,851円+税

④日本の女性風俗史切畑 健 著書/紫紅社 出版


 
見開き1ページごとに1つのスタイルを写真付きで紹介してありとても見やすい本です。

古代日本の歴史から順番に着物の形だけではなく化粧や、髪型まで詳細に再現写真で構成されてあり、難しい言葉や、文章を読むのが苦手な人は視覚からだけでも十分に学べるおすすめ本ですね。

本体 1,296円+税
 
 

現代では、普段着として着る事がめっきり無くなった着物ですが、その事が着物の美しさや文化的価値を高め、今一度見直されるようになりました。

現代着物から、古着アンティーク着物まで、数多くの種類の着物が混在する中で、着物の着方も正統派から和洋折衷な独創的にアレンジしたコーディネイトまで、様々な形で着物を楽しむ人が増えてきました。

どんな形であれ、着物の歴史を振り返れば、今の着物のあり方(決まり事やルール)に正解、不正解など存在しない事がわかりますね。

 
 
伝統ある日本の民族衣装の着物を自分なりに楽しむためにも、歴史を学ぶことは大切ですね。